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札幌地方裁判所 平成4年(ワ)235号 判決 1994年7月18日

原告

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

木村達也

今瞭美

今重一

石田明義

藤本明

馬場政道

高橋剛

房川樹芳

市川守弘

被告

株式会社北海道拓殖銀行

右代表者代表取締役

佐藤安彦

右代理人支配人

辺見宏司

右訴訟代理人弁護士

河谷泰昌

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  原告の請求

被告は、原告に対し、一〇〇万円及びこれに対する平成四年二月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告が被告に対し、被告の原告に対する当座貸越契約に基づく貸金債権を自働債権とし、給与振込契約に基づく給与振込み後の原告の被告に対する預金債権を受働債権とする、被告の原告に対する相殺の意思表示(本件相殺)は違法であると主張し、また、相殺に名をかりて、被告が給与振込事務を行わず原告の預金払出しを拒否した一連の行為(本件支払停止)は違法であると主張し、民法七〇九条に基づき、慰謝料等一〇〇万円の損害賠償を求めた事案である。

一  争いのない事実及び証拠により認められる事実

1  本件当座貸越契約の締結(争いがない。)

(一) 原告は、被告(取扱店は琴似支店)との間で、平成二年四月四日、「たくぎんローンカード契約」という借入限度額三〇万円の当座貸越契約(以下「本件当座貸越契約」という。)を締結した。

(二) 原告は、本件当座貸越契約に基づき、被告から、以後逐次カードによって貸付けを受け、毎月七日に一万円ずつ返済していった。

2  被告の原告に対する貸金債権についての期限の利益の喪失(争いがない。)

(一) 原告の代理人である市川守弘弁護士(以下、原告の代理人であることも含め、単に「市川弁護士」という。)は、被告に対し、平成四年一月二一日到達の書面で、原告が多重債務を負って正常な債務の弁済が困難な状況にあるので、市川弁護士が債務の整理を受任した旨通知した。

(二) 被告は、同日、被告の原告に対する貸金債権について期限の利益を喪失させ、翌二二日、原告に対し、貸金元利金を一括返済するよう催告した。

(三) 被告の原告に対する貸金元金、利息及び遅延損害金の合計額は、同月二九日、二九万二四〇七円(以下、「本件貸金債権」あるいは「本件自働債権」という。)となっていた。

3  本件給与振込契約の締結及び本件給与振込み

(一) 被告は、原告の使用者である訴外ユート運輸倉庫株式会社(以下「ユート運輸」という。)との間で、平成三年四月一〇日、ユート運輸の委託に基づいて、被告が、ユート運輸の従業員に対する給与を同人の預金口座に振り込む事務を行うことを内容とする給与振込みに関する契約(以下「本件給与振込契約」という。)を締結した(争いがない。)。

(二) 被告は、本件給与振込契約に基づいて、原告がユート運輸から支払を受ける給与を、原告の被告琴似支店普通預金口座(以下「本件預金口座」という。)に毎月一〇日振り込んでいた(争いがない。)。

(三) 被告は、平成四年二月七日、本件預金口座に保全登録(債権保全のため預金の支払を停止する処理)をかけた。被告は、ユート運輸の従業員に対する同月一〇日支払の給与について、同日の営業開始時刻前にユート運輸から給与振込資金の支払を受けており、同日の午前九時までに原告を除くユート運輸の他の従業員の預金口座に給与の振込みを終えていたが、本件預金口座には保全登録がされていたため、原告の給与についても右時刻までに振込む手配を終えていたものの、右時刻に原告の給与の振込みをしなかった<省略>。

(四) 同日午前一一時四六分、原告は、被告琴似支店において、本件預金口座から同年一月分の給与の払出しをしようとしたところ、残高が七五四円と記帳されるのみで、右給与の払出しを受けられなかった<省略>。

(五) 被告は、同日午後二時四五分、原告がユート運輸から支払を受ける一月分の給与二三万二〇六五円を本件預金口座に振り込んだ(以下「本件給与振込み」という。)<省略>。

4  被告の原告に対する相殺の意思表示

(一) 被告は、同日昼前頃、市川弁護士に対して、本件貸金債権と被告の原告に対する預金債権(以下「本件預金債権」あるいは「本件受働債権」という。)を対当額をもって相殺する旨の意思表示をした(以下「本件第一の相殺」という。)(争いがない。)。

(二) 被告は、同日午後三時三〇分頃、市川弁護士に対して、本件貸金債権と本件預金債権を対当額をもって相殺する旨の意思表示をした(以下「本件第二の相殺」という。また、本件第一の相殺及び本件第二の相殺を併せて「本件相殺」ということがある。)<省略>。

5  相殺の意思表示後の原告と被告とのやり取り

(一) 市川弁護士は、同月一二日、被告に対し、公開質問状と題する文書を送付した(争いがない。)。

(二) 被告は、同日、本件相殺を撤回することを決め、同日午後二時五二分、本件預金口座に二三万二八一九円の預金残高を復元したが、引き続き、預金の支払停止の処理を継続した<省略>。

(三) 原告は、同月二一日、被告に対し、本件損害賠償請求訴訟を提起した。被告は、同日午後四時頃、本件預金口座の預金の支払停止を解除し(被告の同月一〇日から同月二一日までの支払停止を「本件支払停止」ということがある。)、同月二四日、原告は、本件預金口座から二回にわたり、合計二一万二六八四円を引出し、また、同日、本件預金口座から合計二万〇一三五円が引き落とされ、本件預金口座の残高は零となった<省略>。

二  争点

本件において、原告は、本件相殺及び本件支払停止について、次のとおり不法行為としての違法性があると主張し、被告は、仮に本件支払停止が違法であるとしても、その違法性は単に債務不履行について認められるにとどまり、それを越えて不法行為の責任までも発生させる違法性はないと主張しているが、本件の争点は次の各点にある。

1  本件第一の相殺は相殺適状にない債権債務についての相殺であるか否か。

(原告の主張)

本件第一の相殺は、原告の給与が本件預金口座に振り込まれる以前にされたもので、受働債権である給与払出請求権(預金債権)は成立していないから、無効である。

普通預金の性質は、消費寄託契約と解されているところ、消費寄託契約は要物契約であって、現実に一定の金員が受寄者に交付されていなければならない。したがって、被告は、原告の本件預金口座に給与を振り込んで、初めて、原告に対する預金債務の支払義務を負うことになる。

(被告の主張)

被告は、ユート運輸の従業員に対する平成四年二月一〇日支払の給与について、同日の営業開始時刻前に、ユート運輸から給与振込資金の支払を受けており、同日の営業開始時刻である午前九時までに、原告を除く他の従業員の預金口座へ給与振込みを終えていた。被告は、原告の給与についても、ユート運輸の他の従業員と同様、同日午前九時までに、本件預金口座に振り込む手配を終えていたが、同月七日、本件預金口座に対し保全登録をかけたため、原告についてのみ、同月一〇日午前九時までに本件預金口座への給与の振込みができず、被告が本件預金口座に原告の給与を振り込んだのは同日午後二時四五分であった。

給与振込事務の受託者である被告が、給与の支払義務者であるユート運輸から、既に給与振込資金の支払を受け、かつ、原告を含む従業員の預金口座への給与振込みの手配を終えていた状況に照らすと、原告の本件預金口座に振込みがあったか否かにかかわらず、同日午前九時以前に給与振込額相当の普通預金が成立していたと認めるべきである。

仮に、本件第一の相殺が無効であったとしても、被告は、本件預金口座に原告の給与を振り込んだ後の同日午後三時三〇分頃、本件第二の相殺をしたので、被告が、原告に対し、預金の支払拒絶をしたのは、短時間に過ぎない。被告は、同日午前九時以降は、本件貸金債権と給与を振り込んだ後の本件預金債権とをいつでも相殺することが可能な状況にあり、このような状況下では、被告は、相殺を留保したまま、原告に対し、預金の払出しを拒絶しうるのであるから、本件のように、原告の本件預金口座に給与が振り込まれないでいるために原告が預金の払出しを受けられない場合と、本件預金口座に給与が振り込まれたものの被告が支払を拒絶したために預金の払出しが受けられなかった場合とでは、支払拒絶の態様は異なるものの、いずれの場合も被告の支払拒絶に違法性はなく、不法行為が成立する余地はない。

2  被告に給与振込みを行わない違法があり、原告に対し、労働基準法二四条一項に違反する不法行為が成立するか否か。

(原告の主張)

労働基準法二四条一項及びこれに関する通達によれば、労働者は給与支払日の少なくとも午前一〇時までには振り込まれた給与全額を払出しできる状態におかれていなければならない。被告とユート運輸との本件給与振込契約においても、右通達を受けて、振込給与の支払開始時期を、振込指定日の午前一〇時からとしている。被告はユート運輸の給与支払代行者であるところ、平成四年二月一〇日午前一〇時までに、原告の給与を本件預金口座に振り込んでいない。これは本件給与振込契約に違反するのみならず、労働基準法二四条一項に違反するものであり、原告の給与受給権を侵害する不法行為にあたる。

(被告の主張)

争点1の被告の主張と同旨。

3  BPSによる相殺予約に基づく本件相殺の効力。すなわち、本件相殺は有効か、労働基準法二四条一項、民事執行法一五二条一項、民法五一〇条に違反するものであるか。

(原告の主張)

労働基準法二四条一項は、給与の全額、直接支払を原則としている。給与の自動振込みは、当初からその合法性について問題が指摘され、労働基準局昭和五〇年二月二五日基発一一二号通達によれば、①振り込まれた賃金の全額が、所定の賃金支払日に払出しうる状況にあること、②所定の賃金支払日の午前一〇時頃までには払出し可能であることの二点が守られなければ、給与の自動振込みは違法であるとされている。被告の一方的意思表示による相殺は、現実に労働者が賃金を払い出すことが不可能な状態になるのであるから、労働基準法二四条一項の脱法行為である。したがって、本件相殺は、労働基準法二四条一項の給与の全額、直接支払の趣旨に違反するものである。

賃金は生活維持的・扶養的な特殊性を有していることから、本来、法は厳格な手続を経て債務者が責任財産としての賃金を利用することを認めており、給与が銀行振込によって預金口座に振り込まれた場合においても、その性質は賃金性を失っていない。原告と被告との間においては、給与が被告の主張するように預金口座に振り込まれて被告に対する預金債権となった場合においても、原告の生活保持の見地からする民事執行法一五二条一項の差押禁止の趣旨は尊重されるべきである。被告のした相殺予約による本件相殺は、差押禁止債権についてした相殺であって、民法五一〇条に違反し、違法なものである。

(被告の主張)

本件相殺は、BPSによる相殺予約に基づきされたものであって有効である。

ベストパックサービス(以下「BPS」という。)は、被告の本支店に普通預金等を有する取引先がBPSの申込みをし、被告がこれを承諾することにより、取引先が「たくぎんローンカード」及び「HCBたくぎんカード」によるサービスを被告と株式会社エイチ・シー・ビー(以下「HCB」という。)から受けられるものである。原告は、平成二年三月一六日、被告(取扱店は琴似支店)にBPSを申込み、被告の承諾を得て、BPSによるサービスを受けてきた。

BPSの柱の一つは、ローンカード契約による取引であって、次のとおりの「たくぎんローンカード契約規定」によっている。

① 取引方法

取引先の普通預金口座を利用する当座貸越取引であり、ローンカード専用口座を用いて行う(一条一項)。

② 貸越極度額及び貸越方法

取引先が申込書に記載し被告が承認した貸越極度額の範囲内で取引先は取引期限中反復して被告から当座貸越の方法による貸付けを受けることができる(二条一項)。貸越は、被告が発行する「たくぎんローンカード」を用いて被告の本支店の現金自動支払機等を用いて受けることができる(五条一項)。

③ 定例返済及び返済方法

当座貸越に基づく債務の返済は、毎月七日に前月七日現在の貸越残高に応じて毎月一定額を返済するものとし(六条一項)、その返済は返済用預金口座から自動引落しの方法によって行う(七条一項)。

④ 自動融資

取引先の返済用口座からは、被告が取引先と結んだ預金の自動振替契約の対象となる公共料金やHCBに対するカード利用代金などが所定の期限に自動引落しの方法により振替決済される。取引先の返済用口座の預金残高が、この預金から口座振替によって支払われる公共料金やHBCに対するカード利用代金などの振替決済の所要金額に不足するときは、貸越極度額の範囲内でその不足相当額が当座貸越の方法によって自動融資され、その融資金が返済用口座に振り込まれる(八条一項)。

⑤ 期限の利益喪失による債務の即時支払

取引先につき、所定の事由の一つでも生じたときは、貸越元利金の全額について当然期限の利益を失い(一一条一項)、また、所定の事由の一つでも生じたときは、被告の請求によって貸越元利金の全額について期限の利益を失う(一一条二項)。

⑥ 銀行からの相殺

取引先が当座貸越取引による債務を履行しなければならない場合には、被告は貸越元利金と取引先が被告に対し有する預金その他の債権とを、その債権の期限のいかんにかかわらず、いつでも相殺することができる(一二条一項)。右の相殺ができる場合、被告は事前の通知及び所定の手続を省略し、取引先の預金その他の諸預け金を払戻し、債務の返済にあてることができる(一二条二項)。

右一二条一項の相殺予約は、自働債権である当座貸越元利金債権については、民法と同じくそれが弁済期にあることを要件としているものの、受働債権については、弁済期の未到来分についてもそれを到来させたものとして相殺を認める点に特色がある。一二条一項の契約は、民法の法定相殺の要件を緩和する相殺に関する契約であり、これを一般に相殺予約といっている。相殺予約に基づく相殺は、民法の法定相殺とは性質の異なるものとして一般に承認されており、しかも相殺予約には対外効があることが承認されている。

BPSの法律関係に着目すれば、次のような実態にあるといえる。第一に、ローンカード契約に基づく当座貸越取引は、取引先が被告に対し有する普通預金等の預金の存在が必要不可欠であり、その預金は返済用口座として位置づけられる。返済用口座に取引先が毎月所定の定例返済日に定例返済額及び自動振替の対象となる公共料金やカード利用代金の振替所要額の合計額の入金をしてくれると信頼するからこそ被告は取引先に貸越極度額までの当座貸越を行うのである。第二に、取引先がローンカード契約に基づき貸越極度額までの当座貸越を受ける場合、その用途は限定されないが、大半は消費支出と呼ばれる生活費にあてられることが多いと推測される。取引先は当座貸越により借り受けた資金を消費支出に費消するのであるから、ローンカードによる当座貸越は実質的に見て給与による消費支出を代替しているのであって、その反面当座貸越による債務は返済用口座に振り込まれる給与によって返済することが被告と取引先との間で黙示的に合意されていると見てよい。第三に、取引先が当座貸越による債務の履行をしなければならない場合、被告が貸付債権と取引先が被告に対し有する預金債権とを相殺することができる旨が契約によって定められている。その根底には取引先が有する預金なかんずく返済用口座の預金は、第一と第二に掲げた理由により、被告が相殺の担保的機能に強い期待を寄せる合理的理由があるといえる。

原告は、相殺予約に基づく貸金債権と預金債権との相殺が、労働基準法二四条一項に違反すると主張するが、労働基準法二四条一項は、いかなる場合においても労働者の賃金の支払について使用者が全額払いをしなければならないとする趣旨ではなく、本件の場合、原告は、被告とBPSの取引に入り、その中で相殺予約の条項を含むローンカード契約を結んだのであり、ローンカードによる当座貸越の債権と返済用口座である預金口座(原告の場合は給与振込口座でもある。)の債権との相殺をなすことには合理的な理由があるのであるから、相殺予約及びこれに基づく本件相殺は労働基準法二四条一項に違反せず有効である。

また、原告は、相殺予約に基づく貸金債権と預金債権との相殺が、民事執行法一五二条一項、民法五一〇条に違反すると主張するが、たとえ差押禁止債権であっても、いったんそれが受給者の預金口座に振り込まれた場合は、銀行に対する預金債権に変容し、その全額の差押えが許されるのであるから、預金債権は差押禁止債権にあたらず、民法五一〇条による相殺禁止をいう原告の主張は失当である。

(被告の主張に対する原告の反論)

BPSによる相殺予約は、受働債権の弁済期を放棄して相殺ができるとする規定であり、いわば当然のことを規定しているにすぎない。もし相殺契約の予約とみた場合にも、その債権債務の内容は将来に発生する不確実な内容であって、このような具体性に欠ける債権債務を前提に包括的な相殺契約の予約が成立すると解することはできない。仮に、相殺契約の予約を規定しているものであると解することができるとしても、BPSによる相殺予約に基づく相殺に合理的理由があるかは問題である。被告の主張する相殺予約の特約は、たくぎんローンカード契約の裏面に小さな不動文字で印字されているもので、一般に顧客はその内容を理解して被告と契約することはありえない。また、たくぎんローンカード契約規定一二条一項は、受働債権について被告が期限の利益を放棄して相殺できる旨を約しているにすぎず、相殺の担保的機能が大きな意味を持つわけではない。更に、被告に対して、原告の一か月の給与全額について回収の期待を保護する必要性はない。

4  本件相殺は信義則に反しあるいは権利の濫用にあたるか否か。

(原告の主張)

被告の本件相殺は、独占禁止法一九条、二条九項、昭和五七年公正取引委員会告示一五号一般指定一四項に反する優越的地位の利用による違反行為であって、信義則に反する。被告は、北海道内の大規模な金融機関として君臨している有数の銀行である。被告は、いわゆる消費者金融として「たくぎんローンカード契約」を多数の消費者と契約しているが、その際、画一的契約書を用意し、これと異なるローンカード契約は拒否している。しかし、この契約を前提とすれば、被告が原告に比べ、その優越的地位を利用して原告に不当な不利益を受忍させるものとなる。したがって、本件相殺は、その限度で被告の優越的地位の利用による独占禁止法違反の行為として信義則上無効とされるべきである。

原告は、総額約五一一万円の債務を負っており、いわゆる多重債務者であった。市川弁護士は、原告の債務整理の依頼を受けるとともに、原告の一切の支払を中止し、併せて、原告に家計簿を付けさせ一家の生計を立てていくために最低どの程度の金員が必要かを確認し、そのうえで支払にあてる原資が用意できるのであれば、残元金の長期分割案を債権者らに提示していくつもりであった。このような手続は、多重債務整理の依頼を受けた弁護士が一般に行っていることで、被告も承知している内容である。債権者らへの分割案提示には、相当の期間を要するが、このような過程で、被告のように債権者が自己の債権の保全に走ると、債務整理全体の計画が崩れ、そもそも生活を支えることが不可能になる。被告による本件相殺はこのような状況の中でされたもので、権利濫用といわざるをえない。

5  損害の発生の有無

(原告の主張)

原告は、多額の負債を抱え、その整理に着手した直後であり、このような原告には給与のみが生計を支える手段であった。平成四年二月一〇日、原告の自由になる金員は殆どなく、当日の給与の支払をもって当月分の生活を維持しなければならなかった。しかし、本件相殺によって、当月分の生活費の捻出ができなくなり、原告は不安の中で生活をしていた。この間の原告の精神的苦痛は筆舌に尽くし難く、結果として右給与が返還されたとしても癒されないものである。

(被告の主張)

財産権の侵害の場合には、一般には、財産的損害が賠償されれば、精神的損害も一応回復されたと見るべきである。原告は、本件相殺により、二三万二〇六五円の財産的損害を受けたと主張しているが、本件訴訟提起後の平成四年二月二四日、本件預金口座から合計二三万二八一九円が払い出されており、これによって右の財産的損害は全部回復されている。このように、比較的短期間の預金の支払停止があったに過ぎない本件のような場合、財産的損害が回復されたにもかかわらず、それとは別に精神的損害の賠償が認められるべき理由はない。

第三  争点に対する判断

一  争点1(本件第一の相殺は相殺適状にない債権債務についての相殺であるか否か。)について

前記記事<省略>によれば、被告は、ユート運輸の従業員に対する平成四年二月一〇日支払の給与について、同日の営業開始時刻前にユート運輸から給与振込資金の支払を受け、同日午前九時までに、原告を除くユート運輸の他の従業員の預金口座に給与の振込みを終えていたが、原告の給与については、右時刻に本件預金口座に振込みをしなかったこと及び被告は、同日午後二時四五分、原告がユート運輸から支払を受ける給与二三万二〇六五円を本件預金口座に振り込んだことが認められ、また、前記事実によれば、被告は、同日昼前頃、市川弁護士に対して、本件貸金債権と本件預金債権を対当額をもって相殺する旨の意思表示をしたこと(本件第一の相殺)及び被告は、同日午後三時三〇分頃、市川弁護士に対して、本件貸金債権と本件預金債権を対当額をもって相殺する旨の意思表示をしたこと(本件第二の相殺)が認められる。

ところで、預金契約は、消費寄託契約であり、要物契約と解されるところ、消費寄託契約は、受寄者が寄託者から目的物を受け取ることによってその効力を生じるものであるから、預金契約も銀行が目的物たる金銭の交付を受け取ることによってその効力を生じるというべきである。そして、預金口座への振込みの場合において、預金契約が成立し、預金債権が発生したというためには、単に銀行が振込人あるいは仕向銀行から預金口座に振り込む資金の提供を受けただけでは足りず、銀行が被振込人の預金口座に入金の記帳をした時に、当該預金口座の預金者に対する預金債権が発生するものと解するのが相当である。

そうすると、右事実によれば、被告が本件第二の相殺をした同日午後三時三〇分頃においては、原告の被告に対する本件預金債権が発生していたといえるものの、被告が本件第一の相殺をした同日昼前頃においては、未だ、本件預金口座に原告がユート運輸から支払を受ける給与二三万二〇六五円が振り込まれていなかったのであるから、給与相当額二三万二〇六五円については、原告の被告に対する預金債権として発生しておらず、したがって、本件第一の相殺は右給与相当額については相殺適状にない債権債務についての相殺であって無効であるといわざるをえない。

被告は、被告が、ユート運輸から既に給与振込資金の支払を受け、かつ、原告を含む従業員の預金口座への給与振込みの手配を終えていた状況に照らすと、原告の本件預金口座に振込みがあったか否かにかかわらず、同日午前九時以前に給与振込相当額の預金債権が成立していたと認めるべきである旨主張し、前記事実によれば、本件預金口座には保全登録がされていたため、原告の給与についても右時刻までに振り込む手配を終えていたものの、右時刻に原告の給与の振込みをしなかったことが認められるが、前記説示に照らすと、預金口座に振込みがあったか否かにかかわらず預金債権が成立したとする右主張は採用することができない。

しかしながら、前記のとおり、本件第一の相殺が無効であるとしても、本件第二の相殺は相殺適状にある債権債務についてされた相殺であるから(なお、本件第二の相殺の効力については後記のとおり。)、本件第一の相殺が無効であること及びこれに伴う本件第二の相殺の時点までの被告の原告に対する預金の支払拒絶のみをもって、被告の原告に対する債務不履行責任が成立することについてはともかく、被告の原告に対する不法行為が成立するということはできない。

二  争点2(被告に給与振込みを行わない違法があり、原告に対し、労働基準法二四条一項に違反する不法行為が成立するか否か。)について

労働基準法二四条一項は、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」として、賃金の通貨払の原則を定め、例外として、「法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合」または「命令で定める賃金について確実な支払の方法で命令で定めるものによる場合」には、通貨以外のもので支払うことを認めているが、この趣旨は、労働者の生活の糧である賃金が確実に労働者の手に渡るようにするため、貨幣経済の支配する社会では最も有利な交換手段である通貨による賃金支払を義務づけ、これによって、価格が不明瞭で換価にも不便であり弊害を招くおそれが多い原物支給を禁じ、他方、公益上の必要がある場合または労働者に不利益になるおそれが少ない場合には例外を認めることが実情に沿うとするものである。証拠<以下、省略>によれば、賃金の銀行口座への振込みは、昭和五〇年の行政解釈(昭和五〇年二月二五日基発一一二号)以来、一定の要件をみたす限り労働基準法二四条一項に違反しないと取り扱われ、昭和六二年本法改正による労働基準法施行規則七条の二第一項は、右行政解釈を踏襲して、「使用者は、労働者の同意を得た場合には、賃金の支払について当該労働者が指定する銀行その他の金融機関に対する当該労働者の預金又は貯金への振込みによることができる。」と規定し、これらの要件に加えて、従来と同様、振り込まれた賃金の全額が所定の賃金支払日の午前一〇時頃には払出しうる状況にあること等が行政指導されていることが認められる。

前記事実によれば、被告は、原告の使用者であるユート運輸との間で、平成三年四月一〇日、本件給与振込契約を締結し、これに基づいて、被告は、原告がユート運輸から支払を受ける給与を、原告の本件預金口座に毎月一〇日振り込んでいたこと、被告は、平成四年二月七日、本件預金口座に保全登録をかけ、ユート運輸の従業員に対する同月一〇日支払の給与について、同日の営業開始時刻前にユート運輸から給与振込資金の支払を受けており、同日の午前九時までに原告を除くユート運輸の他の従業員の預金口座に給与の振込みを終えていたが、本件預金口座に保全登録がされていたため、右時刻に原告の給与の振込みをしなかったこと及び被告は、同日午後二時四五分、原告がユート運輸から支払を受ける一月分の給与二三万二〇六五円を本件預金口座に振り込んだことが認められ、また、証拠<省略>によれば、被告のユート運輸との間の本件給与振込契約においては、受給者に対する給与振込金の支払開始時期は、振込指定日の午前一〇時からとする旨の約定があることが認められる。

右事実によれば、被告は、ユート運輸から原告の給与振込資金の支払を受けていたにもかかわらず、労働基準法二四条一項に基づき行政指導されている賃金支払日の午前一〇時頃あるいは被告とユート運輸との間の本件給与振込契約の約定による振込指定日の午前一〇時には、原告がユート運輸から支払を受ける給与を本件預金口座に振り込んでいないのであるから、被告の右処理は、債権保全のためとはいえ、右行政指導及び被告とユート運輸との間の本件給与振込契約に照らし、不適当なものであったといわざるをえない。

しかしながら、労働基準法二四条一項は、使用者と労働者との間の給与の支払原則等の法律関係について規定しているものであって、同法二四条一項の義務を負う者は同法一〇条にいう使用者と解するのが相当であるから、同法二四条一項違反の刑事上及び私法上の効果が直接使用者でない第三者に及ぶと解することはできず、被告の右処理がユート運輸に対する本件給与振込契約違反の債務不履行を成立させることについてはともかく、右事実をもってしても被告の右処理が原告に対して違法性を有し不法行為が成立するということはできない。

原告は、被告はユート運輸の給与支払代行者であって、労働基準法二四条一項に違反する旨主張するところ、右主張にいう給与支払代行者とはその意味が必ずしも判然としないが、証拠<省略>によれば、被告は本件給与振込契約に基づく受託者であることは認められるものの、それ以上に同法二四条一項の義務を負う使用者であるとの証拠はないから、前記説示に照らし、原告の右主張は採用することができない。

三  争点3(BPSによる相殺予約による本件相殺の効力)について

証拠<以下、省略>によれば、次の事実を認めることができる。

1  原告は、平成二年三月一六日、被告(取扱店は琴似支店)に、「たくぎんローンカード」及び「HCBたくぎんカード」によるサービスを被告及びHCBから受けること等を内容とするたくぎんベストパックサービス(BPS)を申込み、その後被告の承諾を得て、原告は、被告との間で、同年四月四日、BPSの内容の一つであるたくぎんローンカード契約(本件当座貸越契約)を締結した。

2  たくぎんローンカード契約規定(乙一の二)によると、次のように定められている。

① 取引方法

たくぎんローンカード契約による取引(以下「この取引」という。)は、普通預金口座を利用する当座貸越取引とし、たくぎんローンカード専用口座(以下「この口座」という。)とする(一条一項)。

② 貸越極度額

この取引の貸越極度額は、たくぎんローンカード申込書記載の借入極度額(本件では三〇万円)とする(二条二項)。

③ 貸越方法

この取引に基づく当座貸越はカード利用規定に定める方法等とする(五条一項)。

④ 定例返済

この取引に基づく毎月の返済は毎月七日に前月七日現在の当座貸越残高に応じて一定額(当座貸越残高が一万円以上三〇万円以下の場合は一万円)の返済を行う(六条一項)。

⑤ 自動引落し

前条による返済は自動引落しの方法による(七条一項)。

⑥ 自動融資

返済用預金口座が口座振替契約による出金のため資金不足となったときは、貸越極度額の範囲内でその不足額をこの口座から自動的に引落し、返済用預金口座に入金する(八条一項)。

⑦ 即時支払い

所定の事由が一つでも生じたときは、通知催告がなくてもこの取引による貸越元利金の全額について期限の利益を失う(一一条一項)。所定の事由が一つでも生じたときは、請求によってこの取引による貸越元利金の全額について期限の利益を失う(一一条二項)。

⑧ 銀行からの相殺

この取引による債務を履行しなければならない場合には、銀行は貸越元利金等と取引先の銀行に対する預金その他の債権とを、その債権の期限のいかんにかかわらず、いつでも相殺することができる(一二条一項)。前項の相殺ができる場合には、銀行は事前の通知及び所定の手続を省略し、取引先の預金その他の諸預け金を払戻し、その取引による債務の返済にあてることができる(一二条二項)。

3  原告は、本件当座貸越契約に基づき、以後、被告から逐次カードによって貸付けを受け、毎月七日に一万円ずつ返済していった。

原告は、被告の主張する相殺予約の特約は、たくぎんローンカード契約の裏面に小さな不動文字で印字されているもので、一般に顧客はその内容を理解して被告と契約することはありえない旨主張するが、右事実によれば、本件のたくぎんローンカード契約規定は、いわゆる約款ないし附合契約というべきものであって、顧客が約款の内容を理解していないとしても、個別の条項を信義則に基づいて合理的に解釈するか否かの問題はさておき、本件当座貸越契約の内容としての効力を否定することはできないから、右主張は採用できない。

そこで、被告の主張する相殺予約の性質について検討すると、右事実によれば、たくぎんローンカード契約規定一二条一項は、取引先の銀行に対する預金その他の債権(受働債権)の弁済期のいかんにかかわらず、銀行は取引先に対する貸越元利金等の自働債権と取引先の銀行に対する右受働債権をいつでも相殺することができるとするものであり、民法上の法定相殺の弁済期についての特約とみることができる(以下「本件相殺特約」という。)。そして、相殺の制度は、互いに同種の債権を有する当事者間において、相対立する債権債務を簡易な方法によって決済し、もって両者の債権関係を円滑かつ公平に処理することを目的とする合理的な制度であって、相殺権を行使する債権者の立場からすれば、受働債権についてあたかも担保権を有するにも似た地位が与えられるという機能を営むものであり、被告が貸越極度額まで当座貸越を行うことを前提とする本件当座貸越契約においては、本件相殺特約は、被告が相殺の担保的機能に期待を寄せる合理的な理由があるということができる。

次に、本件相殺特約による本件第二の相殺の効力(本件第一の相殺が無効であることについては前記のとおりであるので、以下、本件第二の相殺について言及する。)について検討する。

証拠<以下、省略>によれば、被告は、平成四年二月一〇日午後二時四五分、原告がユート運輸から支払を受ける一月分の給与二三万二〇六五円を本件預金口座に振り込んだこと、被告は、同日午後三時三〇分頃、市川弁護士に対して、本件貸金債権と本件給与振込み後の本件預金債権(右振込前の本件預金口座の残高七五四円に右振込分二三万二〇六五円を加えた合計額二三万二八一九円)を対当額をもって相殺する旨の意思表示をしたこと(本件第二の相殺)及び本件預金口座の残高は、同年一月二九日から同年二月九日までの間、六七三円であって、被告は本件貸金債権と預金債権との実効的な相殺のしようがなかったが、同月一〇日、ユート運輸から給与として二三万二〇六五円及び利息として八一円が本件預金口座に入金されることとなったため、被告は、市川弁護士に対して、同日、本件第一及び第二の各相殺の意思表示をしたことが認められる。

労働基準法二四条一項に定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにして、その保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものということができるが、前記説示のとおり、同法二四条一項は、使用者と労働者との間の給与の支払原則等の法律関係について規定しているものであって、同法二四条一項の義務を負う者は同法一〇条にいう使用者と解するのが相当であるから、同法二四条一項違反の私法上の効果が直接使用者でない第三者である被告に及ぶと解することはできず、また、右事実によれば、被告は、本件預金債権の大部分が原告がユート運輸から支払を受ける給与を振り込んだものであることを知っていたことが認められるが、本件預金口座に入金する前の本件預金債権の原資についての被告の認識をもって、同法二四条一項の適用を第三者である被告に及ぼす論拠も見いだせないことから、右事実をもってしても、被告の本件第二の相殺が同法二四条一項に違反する違法なものであるということはできないといわざるをえない。

民事執行法一五二条一項は、執行債務者が金銭執行により差し押さえられた債権が給与等の性質を有する債権である場合、この債権は、執行債務者にとって生活費の意味をもつものなので、執行債務者及びその家族の最低限の生活を保障するという社会政策的配慮から、これを全額差し押さえることを禁止し、民法五一〇条は、差押禁止債権を認めた趣旨からして、差押禁止債権の債務者は、現実に債務を履行すべきであって、債権者に対して反対債権を有していても、相殺によってその債務を免れることはできないとしている。しかしながら、本件においては、被告が、原告がユート運輸から支払を受ける給与を本件預金口座に振り込んだ後の本件預金債権を受働債権とする相殺が問題となっているのであって、差押えの禁止が定められている給付であっても、いったん受給者の預金口座に振り込まれた場合は、その法的性質は受給者の銀行に対する預金債権に変わるのであるから、本件預金債権を受働債権とする本件第二の相殺について、民事執行法一五二条一項、民法五一〇条違反の違法をいうことはできない。もっとも、差押えの禁止が定められている給付について、受給者の預金口座に振り込まれた場合においても、受給者の生活保持の見地から右差押禁止の趣旨は尊重されるべきであって、民事執行法上の手段としては、同法一五三条一項の申立てが可能であり、執行裁判所は、債務者から右申立てがされた場合、債務者及び債権者の生活の状況その他の事情を考慮して、差押命令の全部または一部の取り消しを行うことができるのであるが、被告が、本件預金債権の大部分が原告がユート運輸から支払を受ける給与を振り込んだものであることを知っていたことを前提としても、立法論としてはともかく、現行の民事執行法一五二条一項、民法五一〇条の解釈からは、右差押禁止の趣旨を尊重し、実質的に差押禁止債権にあたるか否かを判断するということはできないといわざるをえないから、いずれにしても、本件第二の相殺が、民事執行法一五二条一項、民法五一〇条違反の違法なものであるということはできない。

よって、争点3についての原告の違法性の主張はいずれも理由がない。

四  争点4(本件相殺は信義則に反しあるいは権利の濫用にあたるか否か。)について

1  (信義則違反について)

原告は、被告の本件相殺は、独占禁止法一九条、二条九項、昭和五七年公正取引委員会告示一五号一般指定一四項に反する違反行為であって、信義則に反する旨主張する。証拠<以下、省略>によれば、被告は、北海道内の大規模な金融機関であること及び被告は、いわゆる消費者金融として、たくぎんローンカード契約を多数の顧客と前記のとおり画一的なたくぎんローンカード契約規定によって契約していることが認められるが、右事実をもってしても、本件第二の相殺が独占禁止法違反であって信義則に反するということはできず、本件全証拠によるも、本件相殺が独占禁止法違反であることを認めるに足りる証拠はない。

2  (権利の濫用について)

証拠<以下、省略>によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 原告は、妻及び子供二人の四人家族であり、毎月、自らユート運輸で稼働して得る手取り二三万円余りの給与収入及び妻がパートとして稼働して得る約一〇万円の収入で家計を賄っていたが、平成元年頃から、金融機関や消費者金融業者等から借財を重ね、平成三年一二月末頃には、原告名義で約五一一万円、妻名義で約四〇三万円の債務を負うこととなり、その返済に窮する状態となった。

(二) 原告は、平成四年一月、市川弁護士に債務整理を委任した。市川弁護士は、いわゆる多重債務整理の依頼を受けた弁護士が行っているように、原告の債務整理の方針として、原告の債権者に対する一切の支払を中止し、原告に家計簿を付けさせ、原告家族が生計を立てていくために最低どの程度の金員が必要かを確認し、そのうえで支払にあてる原資が用意できるのであれば、残元金の長期分割案を債権者らに提示するという方針を立てたうえ、原告にその旨指示し、また、債権者らに、原告の負債の状況を説明し、原告の債務整理を受任したが、債務整理の方針をたてるには少し時間がかかるので宜しくお願いしたい旨及び債権届出を求める旨等を記載した通知書を送付し、被告には、同月二一日、同書面が到達した。

(三) 被告は、同日、たくぎんローンカード契約規定一一条に基づき、被告の原告に対する本件当座貸越契約に基づく賃金債権について、期限の利益を喪失させ、同月二二日、原告に対し、元利金を同月二八日までに一括返済するよう催告した。また、被告は、市川弁護士に対し、同年二月七日、債権残高届出書を送付し、本件当座貸越契約に基づく元金二八万九五四九円の債権届出をした。

(四) 本件預金口座の残高は、同年一月二九日から同年二月九日までの間、六七三円であって、被告は本件貸金債権の期限の利益を喪失させたものの、本件貸金債権と右預金債権とを実効的に相殺することができなかったところ、被告は、ユート運輸との間の本件給与振込契約に基づいて、原告がユート運輸から支払を受ける給与を、本件預金口座に毎月一〇日振り込んでおり、同年二月一〇日、ユート運輸から給与として二三万二〇六五円及び利息として八一円が本件預金口座に入金されることとなったため、同日、本件相殺特約に基づいて、本件相殺の意思表示をした。

(五) 市川弁護士は、同日昼前頃、本件第一の相殺に先立って、被告琴似支店の担当者と電話でやり取りし、その中で、原告の債務整理の方針について重ねて説明したうえ、被告の協力を求め、被告が相殺を行うと債務整理計画が全くたたなくなること及び原告の生活がなりたたなくなることを指摘して、本件相殺に反対した。被告は、相殺を行うか否かについて内部で検討したが、結局、相殺を実行する方針を確認し、同日午後三時三〇分頃、本件第二の相殺の意思表示をした。

ところで、前記説示のとおり、相殺の制度は、相殺権を行使する債権者の立場からすれば、受働債権についてあたかも担保権を有するにも似た地位が与えられるという機能を営むものであり、被告が貸越極度額まで当座貸越を行うことを前提とする本件当座貸越契約においては、本件相殺特約は、被告が相殺の担保的機能に期待を寄せる合理的な理由があるということができるのであるが、このような相殺特約による相殺も具体的個別的事情に照らすと合理的な理由がなく、権利の濫用として許されない場合があると解すべきである。

そこで、本件において、本件第二の相殺が権利の濫用にあたるか否かについて検討すると、右事実によれば、被告は、原告が多額の債務を負い債務の支払を停止し、市川弁護士から債務整理受任の通知を受けた後に、本件給与振込契約に基づき本件預金口座にユート運輸から原告の給与として二三万二〇六五円が振り込まれることとなったため、右振込みの日である平成四年二月一〇日、本件相殺特約に基づいて、本件貸金債権を自働債権として、右給与振込み後の本件預金債権を受働債権として本件相殺の意思表示をしたこと、本件預金口座の残高は、同年一月二九日から同年二月九日までの間、六七三円であって、右給与振込み以外に入金は見込めなかったこと、被告は、同年二月七日、市川弁護士に対し、債権残高届出書を送付し、債権届出をしたこと、被告は、市川弁護士とのやり取り等を通じて、被告が本件相殺を行えば、受働債権である本件預金債権の大部分は右給与が振り込まれたものであったことから、原告の債務整理計画がたたなくなること及び原告の生活がなりたたなくなることを知っていたこと、本件預金口座には、毎月一〇日、原告がユート運輸から支払を受ける給与が振り込まれており、弁護士が債務整理を受任したもとで、債権者らの協力が得られれば、当時、給与を原資として、被告が原告から本件貸金債権の分割返済を受けられる見通しが少なからずあったことが認められるのであって、原告が、事前に、ユー卜運輸に対し、給与振込みの取消しを求めることは可能であったといえなくはないが、被告の本件第二の相殺は、その時期、意図、態様を、民事執行法一五二条一項、民法五一〇条、破産法一〇四条二号の趣旨に照らすと、右給与相当額については、支払停止後の債務者の最低限の生活保持の趣旨及び支払停止後の任意整理の過程における債権者間の公平の趣旨に反し、相殺の担保的機能を期待する合理的な理由に欠け、原告に対する関係においても、もはや権利の濫用であって許されないものであるといわざるをえない。

しかしながら、相殺が権利の濫用として許されない場合においては、相殺が無効となり、受働債権の債務者に債務不履行責任が成立すると解されるものの、不法行為が成立するか否かについては、不法行為の成立要件である権利侵害の行為が契約関係の範囲内に包含され、ただ契約上の義務の不履行という事実についてのみ存する場合には、債務不履行責任のみが成立するにとどまり、契約関係に包摂されない何らかの権利侵害ないし公序良俗違反として違法性を具備する特段の事情がある場合に、はじめて不法行為が成立すると解すべきところ、本件においては、前記認定した諸事情を考慮しても、本件第二の相殺及びこれに伴う本件支払停止には預金契約関係に包摂されない不法行為としての違法性を具備する特段の事情があると認めることができないから、被告の原告に対する不法行為は成立しない。

よって、その余について判断するまでもなく、原告の請求は理由がない。

(裁判官小池一利)

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